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震災から26年

今でも当時のことは忘れられません。

本日は、1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災が起こった1月17日です。
もう26年も経過しましたが、あの時のことは鮮明に覚えています。文書に残したことはなかったので、思い出しながら書き留めようと思います。

発生直後

私は当時高校2年、祖母・母・妹・弟の計5名で住んでました。父は東京に単身赴任という状況。1月16日は確か日曜日で、その日は朝から友人知人と集まって夕方に解散し、と当時の私としてはごく当たり前の日々を過ごしていました。そして明日から週明けの学校に行かないとアカン、嫌だな〜と思いながら就寝。
そして、1月17日午前5時46分、揺れの初動まで気が付かず寝ており、結構な揺れの中で目が覚めました。初めは夢だと思っていましたが、母が大声で大丈夫か?と何度か叫んでいる声を聞いて本当の大地震なのだと気づきました。1〜2分くらい激しい揺れが続く中でうずくまった姿勢になっていたが、とても自力で立てる揺れではなかったことは覚えている。そして、揺れが収まった後すぐに家を出ると、自宅の前の道のアスファルトはヒビだらけで凹凸になっており車はまともに走れない状態、その後母・妹・弟の3人も無事に家を出てきたが、祖母だけいない。私の自宅は祖母が住んでいる住居(かなり古く壁も土壁で屋根も瓦で平家)と私たちが住んでいる住居に別れており、中で繋がっている状態なのだが、外に出た私が祖母が寝ている住居を見ると、屋根からぺしゃんこに潰れていた。そして祖母はその家の中に埋まってしまった。

救援要請

それを見た家族はすぐに消防車を呼ぼうにも電話もダメ、ということでたまたま徒歩数分の距離に市の消防本部があるので、急いで行って救援を要請しに行った。しかし、既に同じような要請や体育館などの避難所の開放を求めに来ていた人が数名いた。既にその時は受け付るはずの人も混乱している中どんどん消防本部に人が集まり、もう収拾がつかない事を悟り一旦自宅に戻る。当然状況は変わらず近所の人たちも混乱状態が続いた。地震発生から1時間くらいのことです。その後、日も明るくなり、人々が混乱から少し落ち着き、街が崩壊している事への絶望を実感するようになった頃に、近所の人たちに協力して頂き、埋まっていた祖母を救出することができたのは、昼前くらいだったと思います。古い家だったので砂埃が酷かったものの無傷で埃でむせたくらいだったのは本当に幸いでした。

街の状況

阪神高速の崩落、ライフラインは場所にもよるがほぼ全滅、避難所の市役所には自宅が無くなり避難し生活している人も多数、食べ物の入手も出来ない状況で隣町へ自転車で買い出しに行った際、途中で通るスーパーもコンビニも全部閉店だったので営業しているところまで10kmくらい走っただろうか、もうそこまで行ったら地震の傷跡がかなり少なく、スーパーも営業(品物は若干少なかったが)、パチンコ屋も通常営業しパチンコ打っている人も何人もいたのを見た時はかなりの衝撃を受けた事を今でも覚えています。そして私が通っていた高校は最も震災の影響が酷かった地域で、学校校舎や体育館などは震災による遺体一時保管場所になっていたが、それを知ったのは学校へ再投稿しある程度時間が経過した時でした。

復興

初めの2ヶ月くらいは学校にも行けず、家の掃除・整理の日々が続きました。電気は即日再開したもののガスと水道の復旧は1ヶ月かそれ以上掛かったような気がします。水は給水車が来るところに取りに行く、風呂は近くの銭湯や電車に乗って親戚の家に行って風呂に入った事を記憶しています。学校に行くにも完全に再開している路線は無く、電車とバスを乗り継いで行き、苦労した事も覚えています。徐々に鉄道も再開、道路も綺麗に、被災した住居の撤去・区画整理も大幅に進み、私の場合は幸いなことに1年後にはほぼ通常の生活に戻っていましたが、被災が酷かった神戸市長田区は倒壊した家が多く、更に火災も発生した事で復興にも時間がかかり、あの辺りで住んでいた方々は本当に苦労したし、悲しい思いをしたと思います。

今思う事は

何十年、何百年に1度起きる天変地異。発生した瞬間の人間の無力さと、絶望の底からお互い助け合いながら復興していった人間の凄さを垣間見ることが出来ました。しかし、あのような事が起きた瞬間は政府・警察・消防など従来住民が頼りにする機関は混乱し、住民全ての要望に即時対応することは不可能でした。そして今後も同じことが起きた時は当時の教訓・技術的発展などでマシだとしても、同じ状況に陥るだろうと思います。
だからこそ、自分たちが無事でいれるような備えや準備・対応が必要だと改めて感じました。平常時は何とでもなることが、緊急時は自力で防ぐ・対応する事が求められるのは今も同じなような気がします。
新コロのこの状況の中、病院も逼迫し入院したくても出来ない状況ですので、自分の身は自分で守る行動が今求められてると、改めて感じた1日でした。

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